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6、なりすまし。


しかしまた、そうして自分が何か他の者になってしまうのかと言うと、必ずしもそうではない。他の者になれる自分と、なれない自分とが同じところに存在するのである。これが自己の内的同一性というものであって、もともと自分の中に備わっているもののことなのである。そしてこれを失うと、自分が自分でなくなるのである。

すなわち、自分が他の者になるというのは、自分自身の中にもともとそうした何かがなければならないのである。もしもそれが無ければ、それは表面上ただ他の者になっているだけで、成り済ましているだけで、他の者になっているように表面上は見えても、実は他の者ではなく、自分自身でもない、そうした訳の分からない正体不明の人間に、自分でも気づかないままなってしまっているのである。

だからまた、私たち人間は、このような日常と非日常、現実と非現実世界の間を行ったり来たりするのである。しなければならないのである。そうやって自分というのを意識しているのである。見知らぬ衝撃に対して「あっ」とさけび声を上げるが、それはいずれ鎮静化され、本来の日常の自分に戻って行かなければならないのである。そしてまた、これが自分という者なのである。



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