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自分の内にこもって一人で思い悩むのでもなければ、沈んで静かに考え込むのでもない。外の世界に対して、自分が「あらわ」」になっていて、そして直接「出ている」。そして交流している。これが「あ」というときの仕草(しぐさ)なのである。 もしもそうでなかたなら、この場合は「あ」ではなくて、「う」となる。それは、息を止めて潜(ひそ)め、身がまえて、内向的になって受け身になっている。同じように驚き、ためらうといっても、その方向というのが反対になっている。内向的で閉じて、あきらめようとしている。どうしたらよいのか分からず、あるいはまた、どうにもならずに諦(あきら)めようとしている。 自分の外の何かへ向かおうとするのではなくて、自分のなかへ沈んで行くのである。これが驚いた時の「あ」と「う」の違いではないだろうか。そうしたことが、自分の身体の中の呼吸と血液の流れ、肉体の筋肉の動き、身体の動作や仕草の姿勢やバランスといったものに現れている。 |
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