index< 日誌 < aj情緒< 21-65「交感D:体裁」 |
触れて、感じて、心が通じ合うこと。この触れて感じるというのは現実的で物理的である。しかし、心理的で内面的な見えざる世界というのがあって、自己の身体内部の内的なシステム、ないし原理といったものが働いている。 この原理というのは内的な必然性のことである。それは情緒的であって、あるいはまた、身体内部の自律神経による作用でもあって、これが身体の表面やその動きに現れているのである。このような自意識の内的な原理、身体内部の必然性でもって相手を感じ取っているのである。「心が通じ合う」というのは、このことなのである。 そしてこのような原理や必然性といったものが、「種」という同一の土台にの上にあって、これをもって相手の心の中を感じているのである。感じることが出来るのである。感じなければならないように出来ているのである。そしてこれが、種という同一性の根拠になっているのである。 これはコトバの起源についても言える。コトバ以前の、自分自身の身体内部の同一性がそれを求め、要求し、そして必要としたのである。他者の中に居る自分という意識を求めたのである。世間に対する自己の体裁というのが、それを求めたのである。 また、自分の身体の動きや呼吸、舌とクチの機能がそれを求め、必要としたのである。それを表現するには、さしあたり、舌とクチ以外になかったのである。 |
index< 日誌< aj情緒< 21-65「交感D」:体裁