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だからこれに従うしかないのである。それ以外になく、ただそれだけが自分が取り得る身の施し方になっているのである。この現実のなかで自分を表現できるのは、自分自身のこの肉体以外にない、ということなのである。 そしてこのような自己のタマシイと肉体との不具合と対立こそが、自分が自分を意識し場面となっているのである。そしてこれがまさしく、自己というのが現れる場面なのである。 それは自己の内的な世界なのであて、現実に存在する世界とは、もともと別の世界なのである。そうした時間が支配する原因と結果の世界、あるいは空間的な距離やサイズが制約する世界とは、まったく別の世界なのである。 そうした制約を受けず、それを預かり知らず、そうした制約とは無関係の、そしてそれがどうでもよい、それとは係わりのない世界なのである。そうした意味では、精神あるいはタマシイとといったものは、現実とは全く別の異次元の世界なのである。 |
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