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3、傾向。


しかし現実の話として、このような身体の動きや仕草といったものが、本来、その原初の始まりになったのは、それが意識でも無意識でもなく、それらが介入する余地のない、ただ生理的で神経的な、感覚や筋肉の反射的で複合的な繰り返しに過ぎなかったものなのである。

しかしまたこのような現実の、自分の身体の不随意で無意識の動きでもってしか自分を知り得ないというのも、また、自分自身のまことに致し方のない事実なのである。

それは、現実を生きる自分とは別の世界なのである。そしてこのような際限のない繰り返しが、常識や習慣、そして情緒の傾向といったものを方向づけてきたのである。

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