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なにもかもが錯覚によって成り立っている。それぞれが本来的に別のもの、別の次元、別の異なる原理でもって成り立っている。言い換えると、誤解と錯覚でない感じ方というのが、もともとないのである。 そうだとすれば、それは何かの象徴に過ぎず、何らかの行為と動作へと誘(いざな)い連想させる、符号や信号に過ぎないのである。世界は、このようにして錯覚と仮想の世界に過ぎないものとなる。 なぜか? それは、あらかじめ制限され制約された、文明というシステムの上で営まれる世界だからである。だから、このシステムの外から見ると、やはりそれは錯覚と仮想であるとしか言いようがないのである。 かつてのマルクス・レーニン主義がそうだった。それは一時的な宗教に過ぎなかったのだ。そしてまた、二千年以上にわたって東アジア世界を拘束し続けた儒教思想もまた、そうした意味で誤解と錯覚の世界に過ぎなかったのである。 そしてまた、今日に至るまで「近代」という時代をリードしてきた「経済人」という概念もまた、やはり幻想に過ぎなかったのである。 |
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2019-0317-0327