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そしてこれを、自分の中の何らかの錯覚の世界の求めているのである。それ以外に理由を見つける場所が、自分の中にないのである。すなわち、自分の中の錯覚の世界の中に、自分自身の存在の理由を見い出そうとしているのである。 しかしここでもまた、儒教とキリスト教の違いが見られる。儒教的な、自己の内面を無視した他人との上下の関係の中でのみ自分を見い出す世界と、それ以前の、自分の中の精神の世界をもって自己を見い出す、欧米的な自意識の世界がそれである。 そしてまた、人権とプライバシーの概念においても根本的な違いが見られるのである。すべては自己認識と自意識の考え方の違いからきている。アイデンティティー(自己の同一性)の根拠が違うということである。 |