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似たもの、関係するもの、あるいは連想するものなどを拾い集めて、それでもって自分の中の得体の知れないものを表現してゆくしかないのである。それはつまり、意図的でやむを得ない錯覚と言える。しかしまた、そうする以外に、それを理解する方法がないのである。 自分にとってワケの分からない、得体の知れない未知のものが、何らかの刺激となって自分の中に入ってくる。それは物的なものだけでなく、心理的なものも含めてそうなのである。どうしたら良いのか分からず、ためらい、惑わされ、迷い、当惑する。 しかし実は、こうしたことが自分で自分を意識する場面になっているのである。そしてそれ自体が、自分の中の錯覚なのであって、錯覚があって始めて意識されているのである。意識自体が、このような錯覚のことを言ってるのである。 そうした、自分でも正体が知れずワケの分からない自分を見ているのである。そうした、自分自身の中の得体の知れない感じ方や感覚といったものを、嫌が上にも自覚させられるのである。それは、自分で自分の意識の世界を見ているのである。自分が自分を「感じている」のである。 |