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6、常識。


このような東アジア儒教世界にあっては、人間のあいだの上下の関係と序列といったものが絶対的で、不可欠なものとして自分自身を拘束し続けている。人間の上下関係そのものが、自分の自意識になっているのである。自分自身というは存在しない。

従って、人権やプライバシーといったものは、どこまで行っても何か訳の分からない、ぼやけて捉(とら)えどころのないボンヤリしたものであり続けるのである。自己と他者を区別する境界線といったものが、どこまで行ってもハッキリすることがないからである。
 
また、格差や差別も存在しないし、それが意識されることもない。なぜなら、それ以前の世界だからである。格差も差別も、される側とする側が前提にあるのであって、そうした前提そのものがない世界だからである。それが当たり前すぎる世界だからである。

「される」も「する」も、それは永遠普遍のものであって、こうした場合、それは「される」とか「する」とは言わないのである。だからまた、このような身分による序列とその社会秩序は、絶対的なものとして、この東アジア儒教世界を拘束し続けてきたのである。そして、これがこの世界の存続の条件であり続けたのである。

戻る。             続く。

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