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こうしたことは、東アジアでは見られない。東アジア世界はもっと現世的で実践的、現実的なのである。そしてその中で自分が存在する条件は、人間同士の間の上下の関係だけなのである。 このようにして社会が運営され、保守され、継続してきたのである。そしてこれが、この文明のシステムなのである。文明の始まりであり、その前提であり、そしてその存在の条件であり続けたのである。 だからまた、どこまで行っても自分の中の自己意識というのが自覚されることがない。他人を通して自分を意識することはあっても、自分で自分を意識するということがないのである。それは、この世界にあっては、意識されてはならないことなのである。それが意識されないということが、この世界の始まりなのである。 日本人や中国人が人権や人格などと言っても、どこかチグハグで怪しげなものに感じられるのは、このためなのである。自分たちが信じる信仰の根本的なところで、その始まりの前提になっているものが、キリスト教とは、どこか根本的に違うのである。 |
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2019-0507-0511