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しかし、欧米のキリスト教世界では様子が違ってくる。もともと人間というのが個人として意識されているからである。また、それが前提で、そこから始まっているからである。プライバシーと人権の概念がそれなのである。 その象徴としての、磔(はりつけ)られたキリストの苦悩の表情は、そうした自己の精神に向けられた苦悩の表情なのである。人間が、自分で自分を意識することの苦しさを表現しているのである。 キリスト教では、自分が生きている現実の、どこにも自分を見い出すことが出来ない場合でも、自己の精神の世界で自分を見い出している。このような自己の精神の自由こそが、キリスト教の本質なのである。 自分で自分を省(かえり)みている。自分の中に自分を見ている。そして、自分自身の心の中にこそ神を意識し、そして見ているのである。神とは、自分から見た他人として神のことではなく、自分自身の中の良心のことなのである。 |
戻る。 続く。
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2019-0507-0511