index< 日誌 <aj情緒< 24b-12「情緒の自己了解」p5 |
自分の中で閉じて自己完結した、自らの対象を喪失した情緒といったものが、対象も相手も理由もある感情となり、そしてその表現としての仕草や行為とならねばならないのである。そうやって始めて自分も納得が出来るし、自分が自分として存在し得るのである。 このようにして仕草やクセや身振り素振りといったものが、何か意味あるものとして理由づけられ、自分の情緒の中で何か変化があるたびに、それに関連付けられ、そして自分なりに理解できるようになるのである。 そして、このようにして人間の生き方や行動のパターンといったものが形式化され、共通化され、画一化される。そうして、それが共通化されてこそ、それがコミュニケーションの手段として拡がって行くことが出来るのである。 ただたんに、自分が納得するだけでなく、相手にもそれが分かるように標準化され規格化されるのである。そして、このようにして集団の中で互いに感じ合い、共有し、交流し合えるようになるのである。また、それが求められたのである。 |