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1、鏡の中。

しかし、こうした純粋の精神の世界は、マジメな意味での相手といったものを必要としない。それはだれでも、どこでも、何にでも、どんなことでも何らかまわない。そんなことは閉じた純粋の精神からすると、どうでも良いことなのである。

何もかもが、どんなものでも自分の思い通りのものに見えてくるからである。そのように誇大拡張され、歪曲され、偏って見えてくるのである。相手の居ない精神とは、何を見ても結局のところ自分しか居らず、自分のすがたしか見えないからである。

他の者は何も映らない、そうした鏡(かがみ)の中の世界を見ているようなものだからである。だから何を見ても聞いても感じても、このようにしか映らないのである。

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