index< 日誌 < s設定< 24c-52「続、映し出される記憶」p5 |
しかし、こうした純粋の精神の世界は、マジメな意味での相手といったものを必要としない。それはだれでも、どこでも、何にでも、どんなことでも何らかまわない。そんなことは閉じた純粋の精神からすると、どうでも良いことなのである。 何もかもが、どんなものでも自分の思い通りのものに見えてくるからである。そのように誇大拡張され、歪曲され、偏って見えてくるのである。相手の居ない精神とは、何を見ても結局のところ自分しか居らず、自分のすがたしか見えないからである。 他の者は何も映らない、そうした鏡(かがみ)の中の世界を見ているようなものだからである。だから何を見ても聞いても感じても、このようにしか映らないのである。 |