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5、解放。

自分にとっての現実の意味といったものが、それだけで一人歩きをしている。さ迷い、当惑し、戸惑いながらフワフワ、ヒラヒラとただよい、あたり構わず取り憑き乗り移り、すがたカタチを変えながら現実をさ迷い続けているのである。

そうしたことが見えるカタチとして表現されたのが、暗がりや物かげの中のさみしげな人影のイメージなのである。そして、それが自分の中の観念の世界に映し出されていて、そしてそれを現実のものと勘違いしているのである。

際限のない自分の中の脅迫観念が、そうした錯覚と幻想を呼び起こしているのである。自分の現実を持たない精神は、このようにして現実の世界を生き続けているのである。

願い求めるものなどよりも、もっと切実で深刻なのは、苦しみや「おびえ」憎しみといったものである。願いや求めるものといったものは、このような苦しみからの解放を求めて、自分の中で生み出された幻想に過ぎないのである。

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2018-0923-1002