index< 日誌 < af必然< 24d-20「感覚の共有」p2 |
そして、これを自らの内部で印象や象徴、及びサインのスイッチとして蓄積し「型」として保存してきたのである。 そして、このような印象といったものを、自分が他人に対して見るとき、例えば他人の顔の表情や仕草を見るときに、直接に自分と同じものとして感じることが出来るのである。 あるいは、そのようにしか感じられないように出来ているのである。自分自身の生存のシステムが、もともとそのように出来ているのである。そしてこれが種としての営みなのであって、その範囲と境界を定めているのである。 反対に言うと、このような境界から逸脱した人間は、共有性がないというか、共通の土台を欠く者として、交流したり共に何かを感じたりすることが不可能なのである。そしてこれが感情の共有の限界線となっているのである。 |