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4、自分が誰なのか。

言い換えると、それがその原因と理由から切り離されて、それが象徴する独立したサインとして、次の行動や意志といったものを予測し判断する「目印し」にしているのである。そして、そうしたことが無限に反復継続する日常の習慣として、私たちの暮らしが成り立っているのである。

何も特に意識したり考えたりすることなく、ある定められた形式のパターンの範囲の中で生きているのである。そしてこれを習慣や馴れ、常識と言っているのである。

従ってまた、このような常識といったものは、それが本来持っていた原初の理由や原因から限りなく離れて行く。そうして気がつくと、いつしか自分が誰なのか分からなくなっている。

なぜ、どうして自分がここに居て、何をしていて、何をしようとしているのか、またその目的や理由といったものが、限りなくボンヤリしていて見えなくなっている。自分というのが、何か自分でも訳の分からない者になっている。自分の理由や意味といったものが見えなくなっているのである。

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2018-1029-1010