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8、自分たち。

こうした境界線があって始めて自己と他者が区別されるのであって、自分が自分として、自分自身に対して正直になれるのである。自分に対して自由になれるのである。そうして自分が自律していると言えるのである。そして自分が自分に対して同一であると言えるのである。

しかしまた実は、こうしたことが私たちが生きてきた東アジア儒教世界には無いのである。同一であるという自己が「自分たち」にすり替わっていて、自分自身というのが存在しないのである。従ってまた、自分が自分を意識するということが無い世界なのである。

もしも仮にそれを意識することがあっても、それは常に「自分たち」の中の自分であって、自分の中の自分を意識することがないのである。自分が生きている現実というのがそうなのであって、予めそのように出来上がっている世界なのである。

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2019-1104-1121