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9、村八分。

だからまた、自分を外から客観的に見ることも出来ず、自分で自分を生きることも、自分が自分を知ることも決してないのである。そうした経験も記憶もあり得ない世界を生きているである。そもそも、そうした場面そのものが無いのである。

しかしまた、ここで生きている限り、それで十分なのである。そして、このような経験と記憶の人間関係こそが、自分が信じる良心と正義になっているのである。事実関係や法律などと言ったことは、ほとんどどうでも良いことなのである。

ただそれが、そうした自分たちの人間関係に合致してこそ、そうした場合にのみ、それが法律や事実として表面に出てくるのである。要は、このような「自分たち」という自意識が、すべてに優先する世界なのである。

そしてこれが分からない者は、空気が読めない者、気配りと察しに欠ける者、自分たちの外の者、波風を立てて引っ掻き回すだけのヨソ者として、だれも相手にしてはならない者として、村八分にされるのである。

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2019-1129-1209