「儒教世界」

〜4、資本。


中世においては領土自体がほぼ唯一の固定資本である。このような現在でもありそうな中世のシステムを身近な例でたとえると、近代の巨大国営企業に例えることが出来る。

天文学的に膨大な投下固定資本の下、そこで働き生きる人間というのが誰であっても極小のコメ粒のような歯車の一つに過ぎず、人間というのが誰にも取り換え可能な消耗品に過ぎず、従ってまた、何よりも大事で決定的なことが、何もかもが何も変化せずにそのままでずっとあり続けるということである。生きた「化石」であり続けるということである。ただそれだけだと言ってもよい。それだけがこのシステムの存続の条件なのである。

事故・ケガ・トラブルのないように、なにごともなく平穏に過ぎて行くだけで、ただそれだけですべてが解決される。ただそれだけがすべてを「まるく」おさめてくれる、そうした世界である。いわば役所の仕事ぶりである。変化も革新も合併も解体もあってはならない世界なのである。

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