「観念の世界」
〜4、キリの中。
現実には見えないけれども、それが暗示し、象徴し、いざなうものの「印象」として確かに感じ取っている。感覚がそれを記憶しているのである。言葉ではうまく言いあらわせないけれども、感覚自体がそれを覚えていて、知っているのである。だからまた、言葉にならない印象としてしか思いだせないのである。 それは、どこにでもあるものである。なにか自分の身の回りにある、どこにでもあるようなものが、いつかどこかである一瞬、そのある一部分だけが特に強調され、拡張され誇大化し、その部分だけが記憶として残り象徴化され、記号や符号となり、あるいはスイッチとなって自分の頭の中で限りなく重大性を帯びてきて、そして、それが何かのイメージとして感じられても来るし、あるいは「見えた」とも思えてくるのである。 カゲロウや、まぶしい光の中や、ものかげや、あるいは霧(きり)の中で見るような世界がそうである。それは、おぼろげでぼんやりした常に変化を繰り返す、まだら模様のようなつかみどころのない世界であって、自分で、自分の中にある何かの得体の知れない記憶、ほとんど忘れかけている記憶の断片を見ているのである。 |