「方向性」
〜3、疑惑。
しかしこれもまた、自己意識の欠如(けつじょ)から来ていると言わざるを得ない。自己と自然が一体化していて、自己がいまだ自然から区別されず、意識されることもない状態なのである。だからまた感情的であり情緒的なのである。理性的でもなく、論理的にもなれないのである。 だからまた、人間関係や社会の絆(きずな)といったものも直接自然から来ていて、自然といまだ区別されることのない血縁を基にした家父長制が支配する世界とならざるを得ない。 自然のままの、いまある情緒がそのままオキテ(掟)となっている社会である。社会のキズナ、人間関係といったものが感情と情緒だけで成り立っていて、理性や合理性が欠落している世界である。精神主義だけが最優先された昔の大日本帝国皇軍がそうであった。 そうした世界では、理性や合理性は不要であるばかりでなく、有害ですらある。社会のシステムそのものが疑惑となって意識されてくるからである。 だから人間はその意味で、意識することも考えることも罪なのである。それは、社会にとっての「悪」なのである。と同時に、人間が生きて活動しているという証明でもあって、現状の否定と社会変革の原動力にもなっているのである。だからまた、そうした社会にとって見れば、それは相容れない存在なのである。 |