「見える世界」
〜3、生理的映像。
これはある意味とっても重要である。内と外、精神と肉体、古い記憶と現在の記憶、現実と潜在意識、そうした意識されざる無意識の世界が複雑に絡み合っている。それはまた、人間が自分を意識する場面でもある。あるいは、自己意識ないし自意識の世界でもある。 それはある意味で初期化であり、リセットであり、初めの状態に戻ろうとしているのである。そうやって自分自身の「自律性」を維持しているのである。感覚や、その統合されたアンサンブルとしての自律した情緒を保護し、調和させているのである。そうやって自分が自分であり続けるのである。 目の網膜上で、色の「色相」と、明るさの「明暗」が反転する。補色や残像の現象がそれである。そうやって人間は自分の目をバランスさせ、安定と統合性を保っているのである。そうして、意識せざる古い記憶や潜在意識の世界を見ているのである。忘れたもの、失われたもの、捨ててきたものを見ているのである。 意識して記憶されたものではなくて、感覚器官の生理作用の積み重ねとして、そのパターンや機能そのものとして、無意識の世界で記録され維持されてきたものである。だから意識もしないのに、なぜか不思議で不可解な異和感を覚えるのである。 これは、意識として記憶されたのではなくて、感覚の生理作用なのであり、意識とは別のところで、肉体がそれ自体で記録してきたものなのである。機能や役割、そしてその仕方として肉体自身が保存してきたものなのである。しかし、それは意識がそれ以前のところで、無意識の生理や機能のパターンとして定形化され、カタチとなったものなのである。意識が現実に現れて来て、そしてそれが、現実のすがたカタチとして表現されたのである。 〜以上は、感覚の生理作用の結果としての視覚の混乱である。 しかし、それとは別に「錯視」というのがあるが、これはむしろ、見る者の「思い込み」に基づくもので、例えば似たものとして、前進色・後退色、暖色・寒色などがあるが、これらも経験と記憶の積み重ねから来る、観念的な「思い込み」から来ているもので、観念的映像と言えるものである。 |