「さまようタマシイ」
〜3、Sex。
それは無いものを見ているか、それとも、有るものをねじ曲げて見ているかのどちらかである。そして、そうした思い込みが真実でありうるのは、自分の心の中でそれを見つけた場合である。 女の顔が象徴していたのは、実はホントは自分の心の中にしか無いものだったのである。女の顔がそれを暗示し印象付け、そして見つけてくれたのである。女の顔を透かして僕は自分の心の中を見ていたのである。だから訳もわからず、いたたまれず、無視もできずに気になって仕方がなかったのである。 それとは、自分が信じて止まないもの、祈りや願いといったものであり、そしてそうしたものが女の中にあるとすれば、なにがなんでも、たとえ生死を賭けてでも確めなければならないものなのである。もちろん、そんなものあるわけがないが、少しぐらいはあるかも知れないのである。 _________________ 少しぐらいというのは、理屈とか考えとか、言葉とか、また、理性でもってしても理解できるものではないからである。Sexとは、自分の肉体で確かめるものなのである。肉体のなかで眠っている、もの言わぬ自分自身の肉体のリズムでもって確かめるものだからである。 それは、意識を無視した自己と他者との直接の交流であり、自分自身の肉体の感覚で確かめる行為なのである。相呼応して何かを見つめていて、確め、ひびき合っているのである。それぞれのリズムが重なりあって、何か別のリズムを作り出して、かなたの世界にそれを見ているのである。 そしてその中で、現実とは別の異質な自分を見ているのである。自分からタマシイだけが抜け出して夢の世界で戯れているのである。そうした外の世界をさまよい続ける正体不明の自分を見ているのである。でも、それはウソかも知れない。僕は、そしてたぶん誰も、やってるときにそんなこと考えたりしない。それは考える以前の、生理と感覚の世界である。 _________________ |