「さまようタマシイ」
〜4、心の中。
だからやはり少しだけである。それは一瞬の夢か幻(まぼろし)の世界であって、そこにずっと留まり続けることができないのである。それは非現実の世界なのである。留(とど)まるとは幻想の世界を生きるということであって、やがて、そこから出て行けなくなって安住するようになる。自分を喪失して見失ってしまう。だから、そうならないように出て行くしかないのである。 しかしまた精神は、それをカタチあるものとして残しておかなければならない。それが失われたり忘れられたりすることがないように。夢と幻はいずれ消えてゆくものであって、つかまえておくことが出来ないのである。だから何らかのカタチとして、なんでもよい、言葉でもイメージでもあるいは何かの象徴や印象として残しておかなければならないのである。 たとえば、絵画や彫像や物語として、あるいは何かの言い伝えとして。想いや感情だけではカタチにならず、記憶のなかで残って行くことが出来ないからである。何らかのカタチある現実、あるいは意識の中の物語として残しておかなければならないのである。自分たちが「信じるもの」、自分たちのタマシイの「拠り所」として。これはとっても大切なことなのである。 ここでまた、始めに戻ってしまう。いったい僕は、女の顔や仕草(しぐさ)を通していったい何を見ていて、そこで連想し象徴されていたものは、いったい何なのかということである。それは、自分で自分の心の中を見ていたとしか、言いようがないのである。 |