「自律性」
〜2、感じ。
「感覚」は、感覚それ自体としては何も残らない。それは移りゆく変化の連続であって、とりとめのない、わけのわからない、つかみどころのないものである。感覚は、その場その時かぎりのものである。 だからそれは現実や意識から切断されたところの、感覚だけの、感覚に対する、感覚の感覚なのであって、なんら実際的なカタチを持つといったことがなく、ただたんに何かの「感じ」としてだけ現実から離れたところにワケもなく残り続けているのである。そしてまた、これがいったい何の「感じ」なのか自分でもまったく知りようがないのである。 意識としての記憶ではなくて、無意識の世界の正体不明のままの何かしらの「感じ」としてだけ残っている記憶なのである。何かしらの「感じ」といったものを感じたとしても、それは感覚の「感じ」だけなのであって、その原因も結果も、出来事の筋道も、脈絡もない、それらとは断絶したところの何かしらの「感じ」だけなのである。 だからまた、感覚がそれ自体で何かを感じているとしても、その原因から切り離されていて、理由といったものもなく、あるはずもなく、それは後から取って付けたようにどうにでも理由づけられる。まるで夢の中のように。 先に印象が出てきて、その後に勝手に出来事の物語が作り上げられるのである。もちろん、嘘八百のデッチ上げである。従って、その出来事の本来の理由や原因といったものは知りようもなく、どうでもよく、また、感覚だけの世界ではそんなことはどうでもよく、無意味でもあって、何かしらの印象だけが浮かんで来て、それからその後に原因や理由といったもの、言い換えれば、現実との接点が無理やりデッチ上げられるのである。 |