見える現実の世界から、それとは別に、それらを中から映し出している秩序や規則、ないし、混沌とした捉(とら)えどころのない不合理といったもの。それらを整理し、分別・仕分けして結びつけ、つないで、関連付けて、広げてゆく。そうやって何かしらの意識や思考といったものが生まれてくる。 あるいは、そこまで至らなくても現実世界に対する自己の対象化、自分と外の世界の区別、そしてまた、自己の意識のなかでの現実世界の観念化が生成され始める。現実と対峙する自分自身というのが認識され自覚されてくる。たとえ思考までいたらなくて、無意識のままであっても、何かを印象し、象徴し、そして関連付けているのである。自分にとっての出来事の意味は、そうやって記憶されるのである。他に記憶の仕方というのがないのである。 自分自身の出来事や経験といったものは、何かすでに自分が経験したこと、見たり聞いたり感じたりしたことと関係づけて記憶されるのである。それがなければ、自分の外からの刺激は、それがいったい何なのことなのか知り得ず、知りようがないのでる。知らないことを記憶のしようがないのである。そしてまた、この「知らない」ということもまた、それ以外の何かを知っている事があるからこそ、それが「知らない」、未知のものであることがわかるのである。 人間が何かを知っているというのは、人間がかつて知り得たことのすべてである。つまり、人間が生きて経験して自分の感覚や経験で知り得たことなのである。それ以外は知り得ず、知りようもなく、知る必要もなく、そしてまた、それが、人間の知っていることのすべてなのである。 X X もちろん、自分の外の世界、すなわち現実というのは、自分の預かり知らない未知の得体の知れないものである。人間が知ることが出来るのは、自分と関(かか)わりのある部分だけなのである。この自分との係り方を観念の世界で映し出したのが「反射」 なのである。観念の世界の中で、自己の偏見と主観でもって現実世界を映し出して見ているのが、つまり、「反射」なのである。この「反射」を通して、人間は現実を見ている。 「反射」とは、自己の精神を通して変換された、現実の見え方なのである。こうしてしか、人間には現実というのが見えて来ないのである。だからそれは、個性的で、主観的な見え方でもあって、だからまた、現実というのがよく見えてくるのである。だれにも見えなかったものが、本人だけにはよく見えてきたり、また、それぞれの人間によっても見え方感じ方というのが、違ってくるのである。本人とか当事者にしか見えて来ないものもあるのである。それはまた、個人の生き方や、その場面ごとの場所やタイミングによっても、違った見え方感じ方として映し出されてくるのである。 戻る。 続く。 |