~4 後ろ姿。
それは、「後(ウシ)ろ」から見る顔ではない。そもそも、後ろに顔などない。後ろから見える顔というのは、髪の毛と首筋しか見えない。だから、それが誰かとわかるような姿でもないし、本人の特徴も個性も曖昧で、なにも見えて来ないすがたである。それは、だれにでも共通するすがたであって、本人が誰なのか分かるすがたではないのである。だからまた、それは後ろ姿でもなく、僕にとっての「K夫人」というのは、やはりヨコ顔だったのである。 後ろすがたというのは、個性のない、本人の特定のしようがない、だれでもかまわないし、誰にでもなりうる、そうした象徴としての女性の姿にしかなれない。だからまた、だれにでもなれるし、様々に理想化され得るし、偏見でもって見ることも出来るものである。 そうした現実離れした空想にしかならない世界である。従って、それが現実のイメージになるためには、やはりヨコ顔か正面の顔でもって、それがだれなのかが特定されなければならないのである。だから僕は、そうして、いつも見ている彼女の後ろ姿に、彼女とは別の、僕にとっての空想上の彼女、非現実の、理想化された象徴としての彼女を見ていたのである。 彼女が僕にとって現実の存在になるには、やはり後ろ姿ではダメで、かとって、なんの変わり映えのしない現実的すぎる、あまりに所帯じみて生活のニオイのする、ヘキエキうんざりの、少しも面白くも楽しくもない「正面」でもダメで、やはり、「ヨコ顔」がもっとも僕にとって彼女らしいすがただったのである。 戻る。 続く。 |