< 精神のカタチ、


〜3、「解放(または追放)」


もしも、精神のこの境界線がやぶれ、自分というのが他者の原理の延長に過ぎなくなり、つまり、他者に支配され、自己の同一性が破壊されるにいたったとき、それは、もはや自分自身であるとは言えない。他者と区別される自己の必然性といったものを喪失するからである。自分が自分でなくなる。他人の原理の下で自分が生かされている。この他者によってのみ、自分というのが存在し、生きていられるのである。

これは自己放棄であり、自己を喪失した状態である。自分と他人の区別がなくなって、境界線がなくなって、自分の精神のすがたといったものが消えてゆく。その輪郭も、骨格も、実体もなくなって、人格を喪失する。自分と他人の区別がなくなる。自分のものと他人のものとの区別がなくなる。

自己意識もあいまいになって、どこかに消えてしまっている。だからこの場合、精神のすがたというのは、非常にとらえにくい。輪郭も境界も無くなって、自由自在に他人の精神が出たり入ったりしている。自分と他人の区別がなくなっている。そして、思い通りに操(あや)り動かす。自分と他人の境界がなくなって精神は自分のカタチを失う。自分と他人の境界線が無くなって、自分と他人の区別もなくなって、人格も人権も消失する。

だからまた、思っていること、感じていることが、そのまま顔に出てくる。そのままというは、自分自身の考えがないという意味でそうなのである。自己意識というのが、そもそも、有るのか、無いのか、わからないくらいにボンヤリしていて、あいまいになっている。だからまた、自分というのを常に他者に求めて、他者の中に自分を感じるといったことになる。

自己の精神を放棄して、自分自身から逃げ出して、他人の偽りの世界の中に自分を見い出そうとしている。自己意識を覗(のぞ)き込まなくて済むからである。自分は自分の中にしかいないのである。そしてこの、際限のない恐ろしさから、逃げ出すことが出来るからである。自分自身を覗かなくても済むからである。

こうした自分が求める他者とは、つまり、「権威」である。権威の下に自分を投げ出し、放棄し、自分で自分を捨てている。自分の責任から逃げ出している。自分で自分を問い続けるという、苦痛や苦悩から解放されている。自分が自分でなくなっている。自分というのが見つからず、苦しむこともない。そもそも、自分というのが存在しないのだから。だからシアワセなのである。いまの日本がそうである。中世の東アジア儒教世界がそうである。

  戻る。              続く。