< 指向性


〜9、「必然」


歴史を外から眺(なが)めて見ると、なにかの自由を目指す、
方向性をもつもののように見えるし、感じられてもくる。
しかし、歴史を中から見てみると、調和とかバランスのようにも
見えてくる。適者生存、生存闘争といったものが、それである。
そうやってバランスされてゆく細部の一部分だけを捉(とら)えて
見ると、なにもかもが行き当りばったりの、偶然だけが支配する、
まるで思いつきと気まぐれだけの世界のように思えてくる。

だが、それらすべてを歴史の前後関係、時間の流れの中で
ながめて見ると、やはりそれは必然としか言いようのないものとして
思えてくる。それらを取り囲む、自然条件や社会状況、そしてその、
条件や前提といったものが、そのような方向性を取る以外に
無かったのだと思えてくるのである。イヤ、だからこそそれが、
後々まで存続し得たのであって、残ることが出来たのである。

それ以外の方向性を取った者は、いつの間にか壊れるか消えて
行って、失われ、忘れられたのである。現在を生きる私たちにとって、
必要のないものとして、忘れられたのである。だから、必然性とか
指向性といったものは、それを見る人間の都合によって解釈されて
いるのである。 

だから、バランスとか調和といったものが、それなのである。
それが、新たなシステムが存続し得るか、消滅するかの、
必然性の基準になっているのである。このようなバランスと
調和によって世界が維持され方向づけられているのである。
生存競争と適者生存が、それである。

そしてそれが、自分のなかに元々からあった「指向性」のように思えて来るのである。本能とか衝動、本質のように思えて来るのである。人間自身の肉体とその構造と仕組みが、そうせざるを得ない条件として人間の歴史を制約し、そしてそこから規定されてくるのである。


戻る。               続く。