< 「コトバ」
〜4、全体性。
だから、考え方や感じ方といったものは、どうしても 主観的・心情的・感情的にならざるを得ず、話すコトバ自体も、 そうした観念的で主観的にならざるを得ない。だれが聞いても、 その対象がハッキリとわかるようなものではなくて、具体性と特定性を 欠いた、心情的なものになるしかなかったのではないだろうか。 つまり、観念的で情緒的なのである。 個というのが集団の中に溶け込んで、キレイに消えている。 個人意識といったものは、意味不明の、訳のわからない 不要なものでしかないのである。あるのは、みんなという集団の 心情だけである。だからまた、いまあるそのままの状態、何も変わらず、 他のものに移行することもない、昔からあるそのままの状態が 支持される。 感覚的にも、感情的にも、心情的にもそうである。 つまり、理性的ではないのである。自分自身はどう思うのか、 というのがないのである。だから情緒的で空気のような存在、 すなわち、家父長制が支持される。 個のアイデンティティー、自己の一体性と連続性を放棄した、 家長を中心とする、集団的全体性がごく自然のなり行きとなる。 というよりも、それ以外に選べる余地などなく、それにしか なり得ないのである。 |