「観念の世界」
〜3、現実の観念化。
しかし、このような思い込みは、実際には、現実の何もかもがそうなのである。多かれ少なかれすべてに思い込みと偏見、して主観が混じっている。それが意識の中に入り込んできていて、それを基に常識とか、ルールやマナーが形成されている。 主観が集まって客観となり、そして普遍へと向かってゆくのである。だから、感覚も意識も考え方も、このような主観の前提としての思い込みが入ってきている。それなしには、主観が成り立たないのである。文明や社会の成り立ちと、前提そのものが、また、そうなのである。 それが自分たちにとっての存在の理由や、居場所を与えてくれるのであり、そしてその正当性を保証してくれるのである。そうやって世界と現実が理解されるのであり、理解できたと思えてくるのであり、自分自身と生活に対する観念化と理由づけがなされるのである。世界の中で自分がなにか意味のある人間のように思わせてくれるのである。 しかし、それも実際には相対的なのであって、絶対的なものではない。古代の縄文式が弥生式に変わり、神道に儒教が重複し、20世紀以降、西洋的な個人主義・自由主義が浸透してきている。そのたびに人間の自己認識・自意識といったものは大きく変化し、移行してきたのである。自分自身と現実に対する見かた、考え方、感じ方といったものが大きく変化してきたのである。歴史的にも場所的にも変化するというのが、人間の観念の世界である。常識は時間的にも空間的にも常に変化し続けている。 |