「目の中の世界」
〜8、根源。
哀れで悲しげな女の後ろ姿に近づくと、振り向いて見せたその顔は、鬼婆や、ノッペラボーだったり。人食いを生業とするオバケで、襲いかかる寸前だったりして。見上げる銅像や、どこか何かが違う山々や、空や、野原や、森といったまわりの風景全体が、気が付くと、何か得体の知れない巨大なオバケに支配されていて、逃げても、逃げても追いかけてきて、もはや自分は逃げられないと観念してしまったり。 そうしたことは、いずれも自分自身の精神の限界を示している。自分自身の心の成り立ち、その型式やパターンといったものを、強く示唆し暗示している。それは自分自身の限界であり、超えることのできない境界であり、制約なのである。オキテとかケジメといったものである。 そうした限界、魂のすがた、自分自身を問い続ける心の拠りどころといったものが、夢のなかで何かの物語として展開されているのである。それは何かを予言し、暗示し、示唆していて、それへといざない、導き、誘い込むものである。 だが同時にそれは、自分自身がのぞんだものでもあり、求め、あこがれ、あるいはまた、自分自身のなかにある何かの恐れから追い立てられてきたものでもある。せめられ、袋叩きにあいながら、やむお得ず脱出して来たものでもある。あるいは、自分自身を放棄し、自分が自分で無くなろうとしているのである。 その理由がなんであれ、たとえ、憧(あこがれ)や、それとも恐れからであれ、そこから出てゆくしかなかったのである。今、自分がいる所を捨てて、そこからカベを越えて、外の世界へ出て行くしかなかったのである。たとえそれが、何かに暗示され導かれたものであっても、それ以前に自分自身が、そこから出て行くしか無かったのである。 それは確かに限界であり、そこからの離脱ではあるが、大事なことは、もっとも肝心なことは、それがはたして何なのか、自分でもよくわからない、ということなのである。 |