「続、紅白」


〜3、印象の世界。


「赤色」は、感情的で情熱的ではあっても、どこか落ち着きというか、ケジメのようなものがあって、自分の情緒に根ざしている。感情的ではあっても意志的で、目的とか意図のようなものが感じられる。流されず、感情も意志も自分のもとから離れることがないのである。

それが感情であるだけに、あちらこちらへと揺れ動き、またそれ自体も変化するのであるが、それが自分の情緒から来ていて、意志的であるだけに、結局は自分の落ち着くところを心得ていて、変わることなく同じところで安定している、そんな色である。

だからそれは、情緒と意志的な感情に訴えているのであって、変わることのない意志を、感情に訴えているのである。理屈とか知性、考え方といったものは、時と場所、そして場合によって、時代によって常に変化しているのであるが、しかし、情緒といったもの、人間の肉体にすり込まれた風土の感触、感性、感じ方といったものは、かんたんには変わらないのである。

そうした情緒といったもの、意識されることのない無意識の世界で、民族の精神を支配し条件づけている、本能的な肉体の記憶とでもいったものである。それと自覚されることのないまま、日常の当然のこととして、無意識のまま受け継がれてきた、精神の感じ方といった
ものなのである。

民族を民族たらしめている、その精神の象徴、印象、そしてそれが意味するところの示標のようなものを感じてしまうのである。そうしたことがまさに、この紅白の色の組み合わせが持つ、印象の世界なのである。

だからまた、それは境界線なのである。日本列島に生きる者にとってのケジメやオキテ、イマシメを表示しているのであって、その精神が及ぶ範囲、領域、限界線を定め、そしてそれを示している標識なのである。だからそれは、この現実を生きる者にとっては限りなく神聖なものであり、犯すべからずのもの、そしてまた、けっして立ち入ってはならない世界なのである。それは日本であるものと、そうでないものとを区別する標識なのである。

だからまた、そうした印象・象徴としての「紅白」を、人間自体が身に着けてはならないのであり、そしてまた、それをコトバや文字で説明したりしてはならないのである。そもそも、コトバや理屈で説明出来るものではないのである。だから、文字が表示される場合は、たいてい、黄と黒、または白で、標識が作成されるのである。

戻る。              続く。