「アイデンティティー」
〜2、自覚。
だから「陽気」は、陽気でない世界からみるとよく見えるのである。陽気の中にいては陽気が見えないのである。どんより雲と蒸し暑さ、あるいは冬の凍える寒さなどといったものを知っている者にとっては、「陽気な天気」、「陽気な性格」というのは、その意味でわかりやすいのである。蒸し暑さから陽気、陽気から寒気へと無限に変化し続ける移り行きの世界を日本人は生きている。しかしまた、そうした変化というのを知らない国民や民族もまたいるのである。 しかし、そうした自分とは異なる部分というのを、知ることが出来るというのは、感覚的、あるいは言葉とか理屈の上で理解しているのであって、肉体的ないし情緒的に理解しているかと言えば、そうではない。それは確かに知ることも納得することも出来るものではあるが、その中で生き、そのなかで同化し、自分自身をそれと同じものとして一体化できるものではないのである。自分は違う世界を生きているのである。同じ現実を生きているにも拘(かかわ)らずにである。逆に言うと、だからこそそれが、自分自身に自覚されて来るのである。 個々の民族のその特殊性といったものは、もともとそのように出来ていないのである。情緒とそこから来る心情といったもの、そしてそれ以前のところにある、感覚の「感じ方」といったものが、そもそも根本的に異なるのである。そしてまさにここに、民族を民族たらしめ ているもの、その民族と他の民族を区別している特徴や、特殊性といったものがあるのである。そうした意味で異なる自律性を生きているのである。 |