「アイデンティティー」
〜6、うつろい。
そうしたことは、異国の旅行者の紀行文にも記録されている。たとえば2週間にもお及ぶ「シベリア鉄道の旅」は、日本人には耐えられないもので、3日目ごろから気が狂うそうである。日本人の情緒や感受性といったものは、それに耐えられるようには出来ていないのである。 シベリア鉄道から見る風景といったものは、毎日、明けても暮れても、いつでもどこでも同じなのである。変化というのが無いのである。見えるのはいつでもどこでも、ただ果てしなく続く地平線だけなのである。それ以外に見えるもの、変わったもの、移って行くものといったものが何も無いのである。それが毎日、永遠のように繰り返されるのである。そして、そうした変わることのない単調さといったものに、日本人の精神は慣れていないし、そしてまた耐えられるようにも出来ていないのである。 日本人にとって地平線というのは19世紀に至るまで、見たことのないものであった。19世紀に北海道が日本領となって初めて、北海道で地平線を、無限に続くかのような地上の世界を見ることとなり、知ったのである。この北海道を除くと日本列島には「地平線」というのが見えることがない。 見えるのは水平線(海)か、自分を取り囲む山々だけなのである。この山々に囲まれた間にある狭い平地で、人々がひしめき合って生きてきたのである。どこにいても必ず山々が見える。そしてそれが、霧の中で現れては消える。のみならず、それが時間の経過とともに、様々に変化をくり返してゆく。それはある意味で、日本人の精神の内面を映し出しているとも言える。移ろいゆく時間と空間の情景の世界をただよいながら生きている。そうした虚ろな世界である。立ち止まってのぞき込んだりしないし、のぞいてもならない世界なのである。 |