「精神異常」


〜3、行方不明者


「精神異常」というのは、ある意味で相対的な考え方である。なぜなら、歴史と地域によって常識の意味が違ってくるからである。事実、ナチスドイツ時代のドイツ人、毛沢東時代の中国人、スターリン時代のロシア人たちは確かに狂っていた。だれもがみんなで狂っていたのである。だからまた、狂っていると気づかなかったし、それに気づいてもならない事だったし、また、狂ったままでいることができたのである。だれもが「狂っている」などとは夢にも思わないで居られる世界だったのである。

しかしそう思えてくるのは、今日わたしたちが過去を別の時代と見ているからであって、その時代を生きていた当時の人々には、それが唯一の正しい常識だったのである。それしか知らず、それ以外を知ってはならない世界を生きていたのである。それを「知る」ということは、自分が生きているその世界と自分の存在を否定してしまうことになるのである。

民族浄化やホロコースト、中世の宗教裁判や魔女狩りもそうである。いつでもどこでも、どの時代も、どこの社会もまた常にそうではなかっただろうか?そうしたことが社会から隔離されたところで人知れず行われ続けて来たのではないだろうか。

秘密警察と強制収容所、反体制派に対する組織的で、肉体的・物理的抹殺といったものがそうである。当時のだれもがそれを当然のこととして受け入れていたのである。それが常識で、そうしたことが少なくとも仕方のないこと、あるいはよい事、当然の事として社会を支配していたのである。 今日の中国や北朝鮮でも法律無視の令状なしの秘密警察による「行方不明者」が数限りなく存在する世界である。それが当然の当たり前の世界なのである。

もどる。              つづく。