「自意識」


〜3、外(そと)。


また、それは反面、特殊な現象を生み出している。「鎖国」である。地続きのユーラシア大陸では、こうしたことは事実上不可能なのである。いつでも、どこからでも異民族・異教徒が押し寄せて来るのである。そしてまた、そうしたことが大朝の盛衰と交替に直接つながっている。

外国では、異民族の先進文化というのが、支配・被支配の直接の同時的関係として一緒に入って来る。外国の先進技術と文化というのが、支配・被支配の統治のシステムとセットで入って来るのである。文化や技術が人を通して人とともに入って来るのである。ということは、支配体制の変更、または交替を伴う。それなくして技術の移植が不可能だからである。戦後日本の急速な経済発展は、それ以前に、アメリカによる政治体制の変更(強制)があったからである。

しかし、日本の場合、他国の先進文化や技術といったものが、人を通さずに直接「もの」として、「もの」だけが入ってくる。つまり、外国の文化や技術の流入といったものが、人間関係を切断して、支配・被支配の統治のシステムを無視して無関係に入って来るのである。こうしたことは他国(外国)では見られない現象なのである。模倣が上手で、技術のユニークさ、発想の豊かさもここから来ている。

事実、他国のことを「外国」と言って自分たちと識別している。「外国」とは、どこそこの他国ではなくて、そんなこととは無関係に自分たちと違う国という意味である。他国として、どこそこの国を指すのではなくて、そんなことにはおかまいなく、興味も意味もなくて、ただたんに海の向こうはみんな「外(そと)」の国という意味である。日本は島国なのである。世界とは海で切断されたところで成り立っている世界なのである。

文化と技術は異民族と共に入ってくることがない。純粋に「もの」として、あるいは文字化された書籍として入って来て伝えられる。そうした外の世界の政治システムから切断された所で成り立っている世界である。そうした下で成り立ち得るし、またそうしてのみ成り立ち得るし、また、そうやってしか成り立たない世界なのである。これが日本の空間的限界、地政学的現実なのである。そうした地理的条件の下をずっと生きてきたのである。

もどる。              つづく。