「島」


〜3、いさぎよい。


どうせどうにもならないと初めからわかっていることなのだから、潔くアッサリ、きっぱりとあきらめるのである。しかもその「諦(あきらめ)め方」に美意識を求めるのである。いさぎよいということが貴く、かけがえなく美しいものにも感じられて、それまでの行きがかりや因縁を、いとも簡単にアッサリと捨てる。もはや「お終い」とわかっているのに、それにどこまでも執着し生きて行こうとすることこそ、見苦しく、疎ましく、おぞましいことのように思えてくるのである。

そのいさぎよさ、節操の無さ、変わり身の鮮やかさは外国人たちを唖然とさせる。昨日までの敵ともいっしょになって、信じて、新しいどうにもならない大災害の後の世界に対応して行くのである。そうするしかないし、そうしてのみ、新たな現実も開けてくるのである。

それがまた、島という限られた空間に住む者にとっての現実であり、宿命なのである。キッパリ、アッサリが好まれ、潔(いさぎよ)ささが貴ばれ、陰湿で執拗なのが忌み嫌われるのは、このような地理的・歴史的環境が、その必然としてもたらしたものなのである。他に方法などなく、そうする以外に無かったのである。日本は島なのである。他にどこへも逃げおおせる場所というのがないのである。空間が限られ、そして海によって閉じているというのが私たちが生きて来た現実の世界なのである。

民族の精神的な気質や気性といえども、このような、民族が生きている現実の自然環境と切り離しては考えられないのである。イヤむしろ、情緒や感覚の感じ方の特性や傾向といったものは、このような自然環境の中から始まり生まれ出たものであって、そこから規定されて来たものなのであって、それと切り離すことの出来ない一体のものなのである。

もどる。              つづく。