「キズナ(絆)」
〜2、純粋科学は排除。
だから自己意識は存在しない。そしてまた、ハッキリと明確にとらえられることもない。意識されないし、自覚もないし、理解もされない。意味不明のわけの解らないものとして扱われる。個人というのがボヤけて、かすんで見えにくくなっている。あいまいでハッキリしない。それどころか、あいまいでハッキリしないことが「良し」とされる。つまり、何も考えてはならないということである。個人意識、個人の自由といったものは、むしろ、災いのタネ、あってはならないのものとして排除される。 これは学問についても、そのまま言えることで、精神の純粋な自己意識と直接関わり合う純粋科学は排除される。実用と直接かかわりのない基礎科学は、意味不明の不要なものとして排除される。そうやって、社会の秩序が維持され継続してゆくのである。 儒教世界の下では西洋的な人権やプライバシーの概念は育たない。たがいに、相容れないものである。従ってまた、自己意識というのが自覚されることもなく、基礎科学や理論科学などの純粋科学は生まれない。すべてが実用と結びついた技能的で実践的なものである。また、そこから抽象化・一般化される技術にまで到達することはがなかった。 |