「風土」


〜3、習わし。


しかしまた反対に、こうした状態が心の交流を深めたのかも知れない。もの言わぬ何気ない仕草(しぐさ)や、日常のありきたりの、差しさわりのない、あまりにも普通で当たり前な日々の風景のくり返しのなかで、言葉(ことば)以前のコミュニケーションやもの言わぬ暗黙の合意と了解、そうした心の交流といったものを深めていったのではないだろうか。

中国や韓国には、それが見られない。日本特有の心のあり方、気配りや思いやり、察しの心情といったものがそれである。相手に見返りを求めたり、期待したりしないのである。ごく自然に、本人もそれに気づくことなく行っているのである。このような気配りと思いやりがないと、このような社会は実際に崩壊してしまう。そうした、あやゆい、いまにも壊れてしまいそうな、あらかじめ定められた無言の合意の世界を私たちは生きている。

日本は狭く、同質の同じ子孫の人間が、ずっと同じように生きて来たのである。その中で少しでも変わった事をされるとパニクルのである。収拾がつかなくなるのである。それはちょうど、集団的ニワトリ小屋の世界である。無言の集団主義の世界なのである。周りとみんなの黙認なしにはどんな些細なことも許されないのである。そうやって社会が維持されているのである。

だからまた、感情をあまり外に出さない。まわりに気をつかうのである。高低長短のない平坦な日本語がそうである。どこか、くすんだような、目立つようで目立たない、淡い色の服装の好みもまたそうである。しぐさや、立居振舞いの行儀良さや几帳面さもまたそうである。すべてそうしたことは、物言わぬシツケや情緒として、それと意識されることなく自然に身に着けてきたものなのである。

あるいは、日本料理の物言わぬ色彩感覚やカタチの美、そしてそれを乗せる器や季節の気配といったものもそうである。直接それと示すのではなくて、間接的にそれを察し、気づき、思いやるのである。そして、そうした心情や心の動きといったものを共有しているのである。彼らは胃袋ではなく五感で食べている。

もどる。              つづく。