「風土」


〜6a、窒息(その1)


それは、閉じた内面の虚ろな世界である。情緒、あるいは私たちが生きている現実の無意識の背景となっているものである。移り、うつろいながら、そして映しだされてくる、そうした空(うつ)ろな世界をただよい、さ迷い続けている。私たちは、そうした、虚ろな内面の世界のなかで自分を確かめようとしている。だから、変化を常とし、定まるといったことがなく、どこにいても、いつも、何かに流され続けているのである。また、流されていないと落ち着かないのである。

それは「何か」といえば、それが、たとえば「みんな同じ日本人ではないか」とか、「みんなと同じ」といった心情の持ち方が、私たち日本人の情緒や無意識の世界を支配しているのである。自分というのが一人でいられないのである。そして、まさにこうしたことが無言の前提になっている。こうしたことが、私たち日本人の生地や地肌、あるいは背景にあるのではないだろうか。

「個人」という意識の宿る場所そのものがないのである。空間的にも歴史的にもそうである。あるいは、個人というものの現実的な居場所、すなわち、地理的・物理的な現実の空間そのものがない。そしてまた、それが根付き機能し働いて行く、そうした現実的な生き方の時間そのものがないのである。歴史にもなり得ず、そしてまた、それが現実に生きている人間の「人生」ともなり得ない世界なのである。

なにもかもがみんなという集団の中で始まり、展開し、そして終わり、そしてまた移り、変わり、動き、そして流されて行くのである。これが「島」という閉じたシステムの無言のならわし、定めといったものではないだろうか。

もどる。              つづく。