ヨーロッパのの起源(古代ギリシャ) p18
「化石」
東アジアでは、そうはいかなかった。
いつでも、どこでも、住民は土地に縛り続けられた。
土地だけであった。ギリシャと似た地形を持つ、
日本の瀬戸内海においても、そうであり続けた。
米(コメ)が、文明の様式の中心であり続けたのである。
コメさえあれば、その他はどうでもよかったのである。
自分で自分の外へ、海の向こうへ出てゆくことは、
ほとんどなかったのである。出て行く必要もなかった。
そして、出て行ってはならないものであり続けたのである。
たしかに倭寇の活動や、その生存の様式、
気質や気性といったものは、古代ギリシャのそれと、
似たところを感じさせる。しかし、日本の歴史において、
それが政治と経済の中心になったことは、
一度もなかったのである。
その原理と基本システムの変化、
あるいは他の原理への移行といったものが、
東アジアではまったく見られない。それは固定したままで、
原理とシステムの変化を排除するものであり続けたのである。
そうしてのみ、自己を保存し続けることができたのである。
その否定は、自己の死であり、それに変わる他の原理の
登場する余地が、東アジアにはなかったのである。
文明の起源となった稲作、米(コメ)という生存の様式、
そして、閉じた地理的条件などが、
それを運命づけたと考えられる。
しかし、実はそうしたことが「儒教精神」であり、
人間を縛り続け、進歩も後退もなく、未来も過去もない、
何の目標も反省もない、そうした植物的に固定した、
化石のような社会を生み出したのである。
何も変わらないというのが、もっとも良しとされる社会なのである。
このような社会では純粋理論も基礎科学も発達しない。
むしろそうしたことは、あってはならない考え方である。
あるのは実用的で、何も考えず、すぐに役に立つ技能や
芸能といったものである。そうしたことが進歩と考えられていて、
自己の内面の反省や自立が、いっさい無視される。
自己意識、自己への無限の反省のないところに、
純粋科学は生成され得ないのである。
戻る。 続く。
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