ヨーロッパのの起源(古代ギリシャ) p19


「儒教」



純粋理論や基礎科学は、
キリスト教的な自己意識のめざめの中から発見され、
それと結びついて発達してきたものである。
しかし、東アジアの儒教では、
自分自身を省(かえり)みるというのは、むしろ、
わけのわからない、不必要で余計なものと見なされる。
だから、東アジアでは純粋理論や基礎科学が発達せず、
もっと正確にいうと、それ自体がなかったのである。

あるのは情緒的な家父長制に基づく上下関係だけである。
日本においては、それはコネと談合に現れている。
コネと談合は、法律や人倫、道徳すべてに優先する、
日本社会のもっとも根本的な、基本原理である。
これが日本の政治と経済のすべてを支配している。
それ以外は、すべて、まやかしと飾りに過ぎない。

自己を放棄した社会にあっては、
自分自身を、他人と権威に依存するしかなく、
自分の考えなどあるはずもなく、だとすると、
情緒的な雰囲気や空気だけで、ものごとが決められてゆく。
これが、日本的なコネと談合の世界なのである。

そしてまたそれだけが、自分自身の身の保全と、
出世と成功への、唯一の道なのである。
テレビも新聞も書籍も、学校も企業も警察も、
すべて、現実を覆い隠すためのものである。
そうしてのみ、世の中というのが、安定するし、
争いもなく、うまく、みんなが幸せに生きて行けるのである。

キリスト教、ないし、西洋的な自己意識、プライバシーや、
人格、アイデンティティーといったものは、
東アジア的な儒教社会とは相入れない。
それは、東アジアの儒教社会にとって、
不必要なものであるだけでなく、社会の生存のシステムと、
その存在理由そのものに、疑いを抱かせるものなのである。
社会の混乱と分裂をもたらすものなのである。

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