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12 自由。



日本では神道も仏教も儒教も、またキリスト教もそれぞれが互いに対立すことも排除することもなく共存している。それどころか、入り混じり、出たり入ったりして、親しく交流し合い理解もし、尊重しあい、お互いが数百数千年この狭い日本という囲いの中で仲良く暮らしている。対立もなければ対峙することもない、お互いが交流し合い尊重し合っている。

本来、信仰とは自己の心の中の問題であって、信条とか生き方、強いてはシツケや常識に関する事柄である。これは個人の内面に係わることであって、ここにおいて妥協などあってはならないし、あるはずのないものなのである。ここでいう妥協とは、すなわち自己の精神の自由を、他人に譲り渡すのと同じことなのである。それはもともとできない相談なのである。

たしかに、尊重し理解し合うことはとっても大事なことではあるが、しかしよく見ると必ずしもそうではないのである。尊重し理解する以前に、実はそんなことはどうでもよいものとして、お互いが認め合っているのである。尊重するということはこのことなのである。迎合し媚びて群れようとするのである。思想・信条の自由以前に、同じ日本人ではないか、ということである。どこかで個人というのが理没してしまっている。

そして、このことこそがもっとも大事なこととして、お互いが認め合っているのである。そしてまた、これが日本の慣行であって常識なのである。自分でも意識されることのない無意識の感覚であり、情緒の世界なのである。気分や雰囲気、空気が支配する世界なのである。

そしてまた、これをわからない人間を、日本人は人間として相手にしない。日本人にとっての人間とは、そして日本人とはこのことなのである。

戻る。            続く。

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