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それは、感情でも思考でもなく、感覚が直接に感じる物理的な感じ方でもなく、ちょうど、それらの接点にあって、感覚でも感情でもなく、自分自身の肉体の中に感じる生理的な感触なのである。感覚の、感覚に対する感じ方なのである。はっきりした理由や相手が不明のままの、気持ちや気分といったものなのである。いい知れぬ雰囲気とか、その場の空気とでもいったものなのである。そしてそれは、ひとことでいうと「情緒」とでもいったものなのである。 自分のものなのに、自分ではどうにもならず、そして自分を支配している。そうした、自分が持って生れて出てきた「情緒」とでもいったものなのである。気質や気性とでもいったものである。自分の外の現実に対する肉体の感覚や、なにかの考えではなくて、自分自身の肉体の中にある、感じ方や受け止め方、気分や情感とでもいったものなのである。 自分のことなのに自分でも思い通りにならない。それどころか、自分自身がそれに支配され、コントロールされているのである。自分が知らないところで、無意識に自分が指向している必然性や、その方向性を示している。 そして、もしもそれを個性というのならば、そうしたことは、だれにでも言えることであって、むしろ、個人が集団として共同体を形成した、歴史上の民族についてのほうが、より強く鮮明に現れている、と思えてくるのである。 つまり、外から自分という現実を見たときに、より鮮やかに見えてくる。いま生きている自分の現実とは別の世界、すなわち、他の異民族・異人種や、あるいは歴史上の民族の世界の中に、どこか自分と似たところを感じてしまうのである。自分の後ろすがたみたいなものを感じてしまうのである。 |
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