index < 日誌 < h感じ方< 「続、感覚」p6/ |
感覚それ自体では、いまだ自意識とはいえない。それはまだ、感じるというのが、自分に対してなのか、他者に対してなのかを区別できないでいるからである。いまだ、自分と他者とが、分離されて感じられないからである。 感覚が、感覚に対して、自(みずから)らを感覚として意識するとき、それは同時に、そうでないものとの区別をしていて、その区別されたところに自分自身というのを感じているのである。 自分と他者が区別され、他者というのが明瞭なカタチで意識されたのが、自分の中の肉体に対する感覚と、外の自然に対する感覚の区別である。あるいは、意識される精神と、外の自然環境に対する区別である。そして同時にまた、それは自分自身 というのを、自分の精神のなかに見ているのである。世界が自己と他者に分裂したのである。 だから、このような精神と肉体の分裂、自己と他者への分裂、あるいは、自分は他者と違うという意識が、何らかの信仰ないし衝動として、意識のなかに映し出されてきて、それが現実のイメージとして定着したのが宗教ではないだろうか。自分が信じる衝動といったものが、何らかのイメージとして象徴化されたのである。 宗教を通して見る神の姿に、自分自身の中にあるもう一人の得体の知れない自分自身を見ているのである。自分で自分の心の中を見ていて、自分で自分を意識しているのである。自分の中にある自意識を見ているのである。だからそれは悪霊であってはならず、崇高な神でなければならず、祈りと救いでなければならないのである。 なぜか? 得体の知れない脅威は、呪い、迷信、悪霊なのかも知れず、それは、どうしても避けなければならないからである。 |