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2、理由がない。



だから情緒には理由がない。わけもなく、それがいつ、どこで、などといったことにも関わらない。そうした現実の場面とは無関係に情緒はやってくるし、知らぬ間に情緒に包まれている。そしてそれが、意識されることなく、空気や、雰囲気や、気持ちのあり方として人々を包んで、支配している。

そしてそれが、ことばのイントネーションや、身ぶり素ぶり、目の動き、顔の表情などに現れてくる。それが自分にとって、もっとも自然な心情であり、まわりの者にとってもそうであるように思えてくる。そうした心情とは、自分自身というよりも、むしろ、集団にとっての、みんなにとっての心情とでも言うべきものなのである。

みんなの中で個人というのが理没していって、自己意識というのが、みんなという集団の中で溶けて、消えて、同化している。人格というのが何かモヤモヤそた霧の中に消えていって、個人というのが消えて、自己意識というのが、集団のなかで一体化している。平均化・均質化している。

これがいわば、日本の信仰であり、自己認識のあり方なのである。自分たちが信じるところのものなのである。日本語で言うところの、「空気が支配している」とは、こうした状態を指している。個人が消えて、集団としての雰囲気が個人を強制してゆくのである。

戻る。          続く。

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