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3、限界。



感覚の感覚に対する感じ方といったもの。感覚そのもの。これが「風土」であり、現実の世界なのであって、背景や環境そのものではないだろうか。そしてそれが、現実に生きている人間の姿であり、人間精神の本質、根源といったものではないだろうか。意識とは、主観でしかないのである。

意識や思考、あるいは概念や言葉などといったものは、こうした自然環境を条件として、そこから押し出され、方向づけられてきた、それ自体が明確な輪郭を持つ、民族精神ないし「種」の特徴なのである。そしてそれは、その民族の、精神の領域と境界、そしてその姿かたちを示しているのである。

それは「めざめ」であり、よみがえりであり、内からにじんできて、あふれ出たのである。祖先の記憶といったものが、自分自身の肉体のなかで「めざめ」たのである。自分というのが祖先の記憶の中で一体化されて、自覚され、そして確められる。感覚のなかで、自分自身というのが映し出されて見えてくる。それは、今では失われた遥かな遠い祖先の、自分の肉体だけが記憶している無意識の感覚の世界である。あるいは、本能的な情緒、その肉体が持つ固有のリズムといったものかも知れない。

他人とは違う自分の情緒とか感情、心理的傾向といったもの。それらが自分でも確かめられ、納得し、そして自覚されてくる。自分自身の精神の領域と輪郭がわかってくる。それが見えても来る。そして、その必然性と限界もまたそうである。他人と区別されるものとしての自分が意識される。自己のアイデンティティーが課題として登場し、そして、それに悩み苦しめられることになる。

戻る。          続く。

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