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暮らしが便利になって豊かになった反面、人間が直接に自分の感覚を確めるといった機会が少なくなっている。ゲームやテレビやスピーカーの架空の世界に生き、そしてそれを現実の感覚と勘違いしている。たしかに意識の上では、それが架空のもので、現実でないというのは、だれでもよく知っている。 しかし、それを感じる自分自身の感覚といったものが、なにか勘違いされているのである。また、だからこそ大衆に受け入れられるのである。そしてそれがテレビと新聞の収入源となっているのである。政治家や学者が支持される理由ともなっている。大衆にとってみれば、そのようがラクだし、楽しいし、何も悩まなくて済むし、周りからも支持されるからである。それこそが、誰もが望んでいることなのである。 現実の音や匂いや、触れるもの、見えるものは、実際に生きていて、それらの感覚の一つ一つが、自分が生きているという、物語の一コマなのであり、そしてまた、それら五感が一つになって、自らの直感となり、本能となり、個性となり、自分自身となっているのである。 肉体の感覚器官とは、そうした常に同一であり続ける自分自身の事であり、その延長線上に自分自身が存在しているのである。そうした自己の同一性、一体性・連続性といったものが、どこかで切断され見失われてゆくような、そんな気がしてならないのである。 |
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