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2、身体。



たとえば、春の早朝の小鳥のさえずりは、やかましいというよりも、可愛いらしい音色(ねいろ)で春の到来を告げている。それは、冬が終わり春の始まりの空気の中で、そうした優しく暖かいおだやかな気温と、うるおいのある水蒸気と共にやってくる。あるいは、春カスミや、春の枝葉や草花の鮮やかな色を伴ってやってくる。

そうした現実のなかで「音」は聞こえてくるし、また同時に、その音の意味と理由もわかってくるのである。理由のない音などないのである。また、だからこそ、その音が可愛らしく聞こえても来るのである。春の訪れを予感させるものとしても、そのように聞こえて来るのである。

だから、現実を離れて「音」だけを聞いてもわからないのである。生きた現実のなかで、自分自身のカラダ全体でもって聞いて、始めて本当の音が聞こえてくるのである。その音は耳だけでなく、空気に触れる肌の感触や、うつりゆく季節の時間の流れの中から
聞こえてくるものなのである。

つまり、人間は自分のカラダ全体で音を聞き、ものを見て、触れて、感じているのである。まさにこれが、生きた現実の感覚といったものなのである。スクリーンやスピーカーでは、本当の感覚といったものを知ることはできないのである。それは自分が生きている経験や記憶そのものなのである。そこから離れたところに、真の意味での記憶にはなり得ないのである。

戻る。            続く。

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